皆さん、こんにちは!
前回のニナの人生〜第一章〜の記事では、まだ私が幸せだった頃のストーリーから、不幸続きの原因となってしまったキッカケ、そして中学の3年間の間に起きた出来事までをご紹介させていただきました。
恐らく、既に前回の記事を読まれた方は、あまりにも凄まじいスピードで掌返しのような人生になってしまったことに驚いた方も多いでしょう。笑
でも、驚くのはまだ早いです。まだまだこれからもっともっとすごい話が出てくるので、どうか怖がらずについてきてくださいね。笑
今回の記事に関して、一つだけ注意していただきたい点があるので念の為お伝えしておきますが、恐らく普通の人生を送っている方には、なかなか信じてもらえないのではないかと思うほどの悲惨な出来事が多数登場します。(※グロとかではないのでご安心を。)
なので、信じがたい出来事の多さから、私のことを統◯◯◯症なのではないかと疑う方もいるかもしれません。
でも、どれもこれも紛れもない正真正銘の事実であり、本当に起こった出来事です。
それでも、どうしても信じられない、私が嘘をついていると思ってしまう場合は、お戻りいただくことをお勧めします。
さて、前置きが長くなりましたが、今回は謎の不幸続きが始まった後の、高校・専門学校時代のストーリーから、海外に留学をしていた頃のお話をご紹介させていただきたいと思います。
今回のお話は、19年以上続いた不幸続きの中の半分ぐらいに到達しますが、まだ不幸続きの原因が分かるずっと前のお話なので、何をやってもうまくいかずもがき苦しむ様子や、想像を絶するほどの孤独、そして次々と襲いかかる理不尽な出来事に翻弄されながらも奮闘する様子などが登場します。
前回の記事でお伝えした孤独な中学時代の延長のような話なので、その後一体何が起こったのか、19年の間にどんなことが起きていたのかを知ることができるので、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!
ニナの人生〜第二章〜 加速する異変、飛び散った人脈
まずは、高校の3年間の間に起こった出来事からご紹介しますが、高校時代も中学のときと同じような状況が続き、高校卒業前から専門学校に入る頃にはかなり状況は悪化していました。
もう既に、小6〜中学の時点でかなり酷い状況に陥っていましたが、高3〜専門学校に入学した後辺りから第二段階というか、次のフェーズに入っていったように思います。
そして専門学校の後、海外留学なども経験しましたが、ここでもある自分の”異変”に気付かされることになるのです。
前回と同様に、年表形式でご紹介していくので、何が起こったのかみていきましょう。
2008〜2011年 更なる悲劇と孤独 (高校時代)
いじめや不登校など、様々な問題を抱えながらなんとか中学を卒業した後は、あまり地元の人間とは関わりたくなかったので、地元から少し離れた高校へ進学しました。
高校は、電車で丸一時間くらいかかるくらいの距離があったので、ちょうど朝の通勤ラッシュの時間帯に被っていたこともあり、通うだけでもとても大変だったのを覚えています。
高校に入学した後の私は、過去のいじめの影響で自分に自信がなくなってしまったり、色々な苦しみを抱えたままではいましたが、今までとは少し違う環境に触れられることや、新しい友達ができるかもしれないという期待はあったので、中学入学のときとは少し違う気持ちでした。
実際、高校へ入学したばかりの高1のときは、すぐに友達ができ、学校でも特に一人ぼっちになることは少なかったように思います。
プライベートでも、友達の家に遊びにいったり、一緒に出かけたりすることもありました。
高1のときは、高校の友達だけでなく、小6の頃にネットで知り合った同じアイドルが好きな友達ともまだギリギリ繋がっていたので、少なからず誰かと遊ぶ機会がある状態ではありました。
そんなこんなで、ようやく少しずつ高校生活にも慣れ始めて順調な滑り出しを切っていたのですが…
入学して、丸2ヶ月が経った頃。
再び、小6のときと同じ悲劇が起こってしまったのです。
なんと、今度は父が病に倒れてしまい、そのまま亡くなってしまったのです。
せっかく、過去に味わったいじめを乗り越えて、新しい場所で心機一転頑張ろうと思っていたのに、今度は父まで亡くなってしまい、次第にやり場のない怒りが込み上げてきて
「なんで私ばっかりこんな目に…?」と、心底神を恨むような感情が芽生え始めていました。
しかも、父の死だけでも辛いのに、通学のために嫌でも乗らざるを得ない満員電車でも、様々な問題やトラブルが発生したため、学校も少しずつ休みがちになってしまったのです。
満員電車での問題とは、2004年の春から突然起こるようになった”他人からの理不尽な八つ当たり行為”のことで、別にこれは電車だけに限ったことではなかったのですが、とにかく毎日、満員電車を中心に、他人からわざとぶつかられたり、喧嘩を売られたりするようになってしまったのです。
しかも、驚いたことに、比較的空いていて座れているときにも発生しました。
どのようなことをされたのかというと、少し肩がぶつかっただけで暴言を吐かれたり、わざと思いっきりどつかれたり…
空いていて席に座れているときでも、100kg近くありそうな巨体の人がわざわざ私の真横に近づいてきて、電車が大きく揺れた瞬間に、その巨体が思いっきり私の方に倒れてきたという事件もありました。
太っている人が倒れてきたときは、身体に大きな衝撃が走っただけでなく、足も思いっきり踏まれてしまったので、靴まで壊されてしまったのです。
このように、時間が経てば経つほどに理不尽な出来事は増えていき、変な人に絡まれる現象も酷さを増していき、本当に頭がおかしくなりそうでした…。
結局、高校生活もわずかばかりに楽しめたのはせいぜい高2ぐらいまでで、最後の方は、ほとんど登校できなくなり、最終的にはクラスメートにも完全に嫌われてしまいました。
そして、高3の頃は、皆がmixiをやっている時代だったので、クラスメートとは一応mixiで繋がったりしていたのですが、高3の辺りから周りから激しく嫌われるようになっていたせいか、突然何人かにブロックされてしまったり、名指しはせずともつぶやきで私だとわかるように、嫌味を大量に書かれてSNSイジメをされるまでの状態に陥ってしまったのです。
ネットやSNSは、小6の頃からやり始めていたのですが、不幸続きが既に始まっていた2004〜2007年ぐらいまではまだ大きな影響はなく、同じ歌手が好きな友達が何人もできたり、普通に関わることができていました。
しかし、次第にネット上ですらも人から猛烈に嫌われるようになっていき、2008年の始めぐらいにはネット上ですらも誰とも関われない状態になってしまいました…。
リアルの生活だけでなく、とうとうネット上ですらも嫌われるようになってしまったので、もうこの頃には”私という存在がただ側に居るだけで嫌われてしまうんだ”という認識へと変わってしまい、人との距離感も、人との関わり方も、何もかもが分からなくなってしまい、自分から人を遠ざけるようになっていったのです…。
恋愛も、不幸な恋愛しかできなかったり、自分が好きになった相手にはとにかく嫌われてしまうので、特に良い思い出もありません。
こうして高校でも、色々と悲しい出来事や不可解な出来事が頻発し続けましたが、なんとか進路を決めて無事に卒業することができました。
2011年 ただの嫌われ者から幽霊に (専門学校)
高校の3年間だけでも、どんどん状況が悪化し続けていたことが一目瞭然でお分かりいただけるかと思いますが、高校卒業間近の頃には誰も私に近づきたがらなくなっていたぐらいの状況だったので、専門へ入学した頃は本当に酷いものでした。
進学した専門学校は、高校の出席日数の不足や自分のやりたいこともよくわからないという問題もあったので、進路先を早く決めなくてはと、慌ててよく考えずにちょっと興味のある分野の学校を選んでしまったのです。
親も私の将来を心配してくれて、必死にバックアップしてくれていたので、仕方がないといえば仕方がなかったのですが…
まず専門学校での生活についてですが、最初にお伝えした通り、高3の頃にはかなり私の状況も悪化していたので、誰とも仲良くなることはありませんでした。もはや、入学した初日から気持ち悪がられていたほどの有様です。
恐らく、このとき自分では全く気づいていませんでしたが(すでに小6の時点でもそうですが)、ものすごく幸せだった頃の自分など全く想像できないほどに陰のオーラに包まれてしまっていたのでしょう。
もうこの時には、ただの嫌われ者というよりも、お化けみたいな扱いをされていたくらいです。(苦笑)
結局、このような悲惨なスタートを切ってしまったため、中学時代と同様に周りの男子生徒はもちろん、女子生徒からも猛烈に気持ち悪がられ、毎日のようにイジメられるだけの日々を送ることになってしまいました。
特に男子からの嫌われっぷりハブられっぷりは凄まじく、先生の指示でとある生徒に物を貸してあげたのにも関わらず、嫌味を吐かれたり、廊下で挨拶をしても完全にシカトされたり….。
女子生徒も同じような反応で、挨拶も話かけても無視されるか、あからさまに嫌そうな態度を取られるかで、もう居場所などどこにもありませんでした。
このときもmixiをやっていましたが、やはり高3のときと同じように沢山の人にブロックされたり、つぶやきで嫌味を書かれたりもしました。何も関わりのない人にすらブロックされる始末ですw
もはや、何をやっても何を言っても何をしても気持ち悪がられる、嫌われるというような状況に。
特に今でもハッキリと覚えているのが、ある日一人の女子生徒に「お疲れ様です」と声をかけたら、眉間に凄いシワを寄せて、化け物でも見ているかのような凄まじい表情をされたことがありました。
何もしていないのに、ただ挨拶しただけでも睨まれる、気持ち悪がられる、嫌われる…。
本当に、特に専門学校は地獄のような日々でした。
授業自体も、興味はある分野ではあったものの、凄い熱意を持って入学した訳ではなかったこともあり、なんだか周りの子たちと同じように飲み込めず、手先も不器用だったので全体的についていけずに苦労していました。
結局、授業にもついていけない、友達も一人もできない、ただ居るだけで嫌われてしまうので、半年で退学を決意。
学校を辞めること自体は少し悩みましたが、もうあんなイジメに遭うことは耐えられそうになかったので、特に後悔はなくすっきりと辞めれました。
2012〜2013年 自分の幸せを妨げる謎の邪魔1 (海外留学)
専門学校を辞めた後は、まだこの時は家計的に豊かさが残っていたので、特に急いで働いたりすることはなく、無職(ニート)の状態が1年ぐらい続いてしまうこともありました。
暇な時間も多く、何か気晴らしや新しい出会いを探していたのか、20歳のときに海外留学をしてみたいという気持ちが芽生えたのです。
とはいえ、今まで一人で海外へいったことなどなかったですし、長期的に行くお金はなかったので、まずは2週間の短期留学をすることに。渡航先はベタですがアメリカを選びました。
そして、いよいよ2012年の夏、アメリカへ渡航したのですが…。
ここでもやっぱり、相変わらず「おかしいな」と思ってしまう扱いを受けてしまうことに…。
留学先では、当然人との出会いや交流する場面は多かったのですが、やはり小6の頃から始まった不可解な異変の影響で誰も私と関わりたいと思わないのか、何かバリアのようなものを皆から張られているように感じていました。
また、せっかく同じシェアハウスにめちゃめちゃイケメンなドイツ人とスペイン人が一緒に住んでいてとてもラッキーな環境であったはずなのに、全然英語が話せなかったり、好意的な態度も取られなかったりで、結局仲良くなれず、惨めな思いをしてしまったのです…。
日本人の留学生には、常に見下された態度を取られていて、一緒に出かけた時にはわざと置いてけぼりにされてしまったこともありました…。
せっかくのアメリカ留学も、不可解な嫌われ方をするようになっていたせいで、学生時代と同じように残念な終わり方をしてしまったのです。
相変わらず、惨めな思いばかりしていたものの、外国人男性や海外の開放的な環境に憧れがあり、この後もめげずに何度も何度も海外へ渡航しました。
アメリカの短期留学の後は、ヨーロッパ各国に長期滞在してみたり、最終的にオーストラリアにワーキングホリデーで長期滞在することもできました。(ワーホリで行く前に1ヶ月の短期留学も経験)
唯一、オーストラリアに短期留学したときは、不思議と初っ端からいい出会いがあったり、沢山の人と仲良くなれたり、まるでまだ不幸になる前の2003年以前のような状況でした。
もうかれこれ2004年以降、孤独な状況がずーっと続いていたので、久しぶりの良い状況に戸惑いさえ覚えたものです。
しかし、その幸せもやはり不思議と長くは続かず…。
私はこの短期留学を皮切りに、”謎の邪魔”に気付かされることになるのです。
まず、不思議と全てが良い状況だったこのオーストラリア留学では、入学当初からものすごい理想的な異性との出会いがあったり、さらにその好きな彼の方から声をかけてきてくれたり、学校のスタッフもとても自分に好意的に接してくれて、国籍問わず留学生たちともすぐに打ち解けることができました。
休日も、友人たちと動物園や水族館に出かけたり、週末には生徒たちが集まるホームパーティーやナイトクラブにも毎週のように遊びに行き、さらには留学生活の最後に大好きな彼とも急接近。
彼と急接近する前も、学校で会うたびに向こうから好意的に話しかけてくれたりしていてうまくやれていたのですが、自分に好意を持っているとは気づきませんでした。
まさかの留学生活の最後で、彼と良い感じになってしまったのですが、、私の方が先に帰国をしなければならない状況だったので、名残惜しい気持ちを残しながらも、結局彼とは短い期間でお別れをすることに…。
もし、もっと長い期間一緒にいることができたら、おそらく付き合えていたかもしれません…。
それにせっかく10年ぶりぐらいに、人に恵まれる喜びや、恋愛が思い通りになる幸せを味わうことができたというのに、なんでこうも自分って幸せが長続きしないんだろう…?と、ものすごく不思議に感じていました。
知人にすら「ニナって本当にタイミングが悪いよね…。」と、うんざりしながら言われてしまったほどです。
このことをキッカケに、”目に見えない何か”が私の幸せを妨げているのかな…と少しずつ感じるようになったのです。
おまけに留学先で出会った彼は、見た目がタイプなのはもちろん、モデルさんのようにキレイな人だったので、手放してしまったショックは計り知れないものでした…。
皆さんも、ものすごく自分好みの異性とどこかで出会い仲良くなれたなら、なかなか忘れられないのではないでしょうか?そもそも、そんなタイプな人と出会える確率自体があまり多くないように思います。
そのくらい衝撃的な出会いだったということと、まさにこれから!という絶妙すぎるタイミングで離れてしまったので、本当に辛かったです。
ただでさえ理想的な彼との別れで苦しんでいたのに、なんとこの後、私はまた更なる悲劇に襲われてしまったのです。
帰国後、彼と離れてしまった悔しさとショックからひたすら地獄のような日々を送っていましたが、なんとか自分を奮い立たせて、お金を貯めてもう一度オーストラリアに戻ろうという決意をしました。
当時、恥ずかしながらほとんど働いたことがなかったのですが、とりあえず面接に受かりやすい販売の仕事に応募してみました。
面接には無事に受かり、早速そこで働くことに。
働き出したはいいものの、頭の中は彼と離れたショックやストレスで一杯の状態。
そのせいでなかなか仕事に集中できず、マトモに覚えることもできず、日々空回りの連続でした…。
そして、働き始めて約2週間が経った頃。
とうとうこんな私の状況にしびれを切らした店長が、私を外へ呼び出したのです。
外に呼び出された日にも、自分が気づかないうちに仕事上でのミスを犯してしまっていたようで、そのことで店長の怒りは大爆発。
店長は、今にも殴りかかりそうな勢いで、凄まじい怒鳴り声を上げてきました…。
あまりに酷い怒鳴り声に、気が狂いそうになりましたが、その後なんとか話をつけ、とりあえず帰宅させられることに…。
当然の流れではありますが、ロクに仕事も覚えられず、店長との事件もあったため、結局そこの職場は退職。
彼との別れや職場でのトラブルなど、次々と襲い掛かる不幸の連続で、私の脳も限界に達していたのか、この頃から激しいパニック発作のような症状にも悩まされるようになりました。
思い返せば、この事件と同時期ぐらいから母親の態度もどんどん豹変。
母は、父の代わりに家計を支えてくれていたので夜遅くまで働いていたのですが、家に帰ってくると私に八つ当たりをしてくるようになりました。
彼と離れたショックなどで苦しんでいるのにも関わらず、そんな私を鼻で笑うように
「お前なんか一生彼氏もできねぇよ、今までお前の周りになんかだーれもいなかったもんなぁ?w」
「お前の周りに誰かいるもんなら、連れてきてみろよ‼️」
などと、落ち込んでいる人間を更なるどん底に叩き落とすような暴言を吐いてくるようになったのです…。
彼と一緒にいるチャンスも破壊され、お金を貯めようとした職場では暴言と暴力の両方を喰らい、母親には毎日のように大声で罵られ…
日々続く、限度を知らない不幸の暴力で、脳が完全におかしくなってしまい、パニック発作も毎日のように起こるようになりました。
母親のモラハラや、あまりにも酷すぎる周囲の人間の態度に翻弄されるだけでなく、2004年の春から始まった他人からの八つ当たり行為も、時間経過と共にどんどん悪化していき、21歳のときには、完全に孤立していました。
こうして2013年の終盤は、やりきれない苦しみをなんとか自分の中に抑え込みながら乗り切ることに…。
2014〜2015年 自分の幸せを妨げる謎の邪魔2 (海外留学)
不幸の暴力のような日々がひたすら続く中、なんとか悲惨な2013年の年末を乗り越えて、2014年を迎えました。
それと実は、2013年の終わり頃に、母親から「この家(一戸建て)を出ていく。」と突然告げられて、2014年を迎えてすぐに引っ越しをすることになったのです。
あまりにも突然すぎる宣告だったのと、まだ10年ほどしか住んでいない新しい家だったので、なぜわざわざ引っ越しをするのか理解に苦しんだのですが、後から理由を聞くと「もうこんな所には居られない。」とキッパリ言われました。
不思議なものでこの頃はすっかり忘れていたのですが、第一章の記事でご紹介した通り、この一戸建てを建設してから色々な不幸が続いてしまったり、不気味な怪奇現象が頻発するようになっていたので、母は何かを感じ取って、引っ越すことを決意したようなのです。
こうして、私と母は、家から比較的近い場所にあるマンションに引っ越すことに。
この頃も、まだ留学先で出会った彼のことが大好きで忘れられずにいたのですが、彼は私よりも遥かに長い期間オーストラリアに滞在し、色々な人との出会いや学校生活を楽しんでいたようだったので、もう彼のことは仕方がないと少しずつ諦めがついていき…
結局私は、もう一度オーストラリアに戻って新しい出会いを見つけようと心に決めたのです。
余談ですが、おそらくここまでブログを読んでくださった方は、きっと私に対して「なぜ、こんなに何度も海外へ行くお金があるの?」と疑問に思われた事でしょう。
渡航の資金源は、お恥ずかしながら私が稼いだお金ではなく、家(親)に出してもらっていました…。(本当に情けないです。)
具体的に言うと、まだ幸せの絶頂期だったころから、祖父を中心にかなり甘やかされて育ってしまい、2014年ごろまではまだ少し経済的に余裕があったため、その影響で費用を出してもらえていたのです。
父親や祖父母は、愛情深いマトモな家族でしたが、母親には色々と不思議な点があり、私を徹底的に罵るくせして金銭面だけは昔から援助をしてくれるという、飴と鞭のような態度を取られてきました。
こういう異常な環境に慣れてしまったせいで、私もそこに依存してしまい、結局22歳ぐらいまで憎いはずの母のお金を頼りに生きてしまったのです。
そして、無事に引っ越しを終えてから、今度はワーキングホリデービザで渡航することになりました。
ワーキングホリデーの場合、1年間滞在することができ、学校に通うだけでなくアルバイトも可能なので、まずは短期留学のときと同じ学校に数ヶ月通い、その後はアルバイトをするというプランを立てて渡航しました。
短期留学がとても楽しかったので、彼と出会った同じ学校にもう一度選んだのですが、、なんとここでもまた嫌な思いをしてしまうことになってしまったのです。
当然、時期が違えば人も違うので、同じ場所とはいえど状況が違うのは当たり前ではあるのですが…
再び同じ学校に戻ったときは、まずルームメイトが何かに取り憑かれているような不気味な人だったり、意地悪な日本人がいたり、学校でも同じような日本人がものすごく多く、さらには良い出会いなど一切なく、短期留学のときとは別世界のようなえらい違いでした…。
入学当初から、日本人の生徒たち、そしてシェアハウスの同居人にもバカにした態度をとられたり、不気味なルームメイトには夜中に変な奇声を上げられたり、たびたび文句ばかり言われるなりで、もうテンションはガタ落ち状態。
オマケに、前回と同様にナイトクラブなどにもよく行きましたが、なぜか自分には変な人ばかり寄ってきてしまったり、あまりにも毎回気持ち悪い人に絡まれてしまうので、知人が必死になって引き剥がそうと助けを出してくれることもあったほどです。
自分が良いなと思えるような人とは、一切関わることもできず、相手にもされず…
こうしたストレスから、どんどんヤケクソになっていき「どうせ私は変な人にしか好かれないんだ。」という投げやりな気持ちになってしまい、自分を大事にできなくなってしまいました。
不思議と短期留学のときだけは、全てが良い状態だったのに、なぜまたアメリカ留学のときと同じような苦しみを味わわなくてはいけないのか、本当に嫌な気分になったものです。
そして、さらに悲劇は続いていき、学校の教師やスタッフの態度にも異変が。
正直、二度目のオーストラリア生活があまりにも荒んでしまっていたため、私は次第に学校へ行かなくなってしまったのです。
おそらく、この荒れ狂う私の気持ちが無意識に表情や態度に出てしまっていたのか、授業を担当する教師にも、わざと出席のときに名前を呼んでもらえなかったり、無視までされるようになってしまいました。
短期留学のときに優しくしてくれていた学校のスタッフも、普通に話はしてくれていましたが、良く思っていないのは一目瞭然でした。
こうして、どんどん学校でも粗悪な扱いをされるようになっていき…
学校を卒業するときには、卒業証書を貰えるはずなんですが、名前すら呼ばれることもなく、完全に存在を無視された状態で学校生活を終えることになってしまいました。
こうして二度目の学校生活は、地獄のような思いをしながら幕を閉じたのです…。
悲惨な学校生活が終わった後、再び私は自分の人生に対して更なる違和感を覚えていました。
まず、一番不思議に思ったのが、短期留学のときだけはあれだけ全てが良い状態で、皆から好かれる状態だったのに、なぜこうも掌返しのような真逆の酷い扱いを受けるようになってしまったのか、という点です。
いくらなんでも、普通の人であれば、ここまでの扱いの差を経験することはさすがにないんじゃないかと思いませんか…?
このあまりにも酷い掌返しのような仕打ちに違和感を覚え、”何かがおかしい”と少しずつ自覚するようになっていきました。
悲劇はそれだけにとどまらず、学校を卒業した後でもあちこちで発生するように。
学校を出た後は、あまりの悲惨な状況に耐えられなくなり、少しの間一時帰国をすることにしたのです。
色々あった海外生活のストレスで、心身ともに落ち込み切っていたのですが、再び現地に戻ったときの生活費ももう少し欲しかったので、帰国している間は短期バイトなどをしていました。
なので、あまりゆっくりもできていなかったんですが、なんと日本での短期バイトもロクに上手く務まらず、結局すぐに派遣切りに遭ってしまったりで、本当に全てが空回り状態でした。
二度目の学校生活、日本での生活、人間関係、家庭環境、バイト…
本当に、何一つ上手くいかず、今にも倒れそうでしたが、いつか海外へ住んでみたいという強い思いから、なんとかめげずにお金を稼いで、再びオーストラリアへ。
一時帰国を経てオーストラリアへ戻った後は、ワーホリ生活の後半に差し掛かってくるのですが、その後半戦でも悲劇は増し続けてしまうのです。
まず、新たな滞在先を決めなくてはいけなかったので、現地に着いてからすぐに家を探し始め、あまり色々な所へは周らず、内見に行った1つの物件を即決してしまいました。
そこの物件は、部屋の状態や立地も良く、家賃もそれなりに安かったので、総合的に良いなと思い、即決に至りました。
今思えば、そこのオーナーは一目見ただけで”変な人”だと分かるはずなんですが…苦笑
そんなこんなで、新たな滞在先での生活が始まったのですが…
シェアハウスを決めた後は、アルバイト先も決めなくてはいけなかったので、家探しのときと同様にネットを使って探し始めました。
ネットでアルバイト先を探していると、運良くすぐに一件の日本食レストランとコンタクトを取ることに成功したのです。
早速、面接をしましょうということになり、後日お店に行くことに。
すると、すぐに採用が決定し、さっそく日本食レストランで働くことになりました。
アルバイト先が決まったのは良かったのですが、、ここでもまた色々とトラブルが発生してしまい、すぐに辞めることになってしまったのです。
不可解なほどに続く人間関係のトラブルはさておき、この辺りから「なんで自分はこんなに仕事が続かないんだろう?すぐにトラブルになってしまうんだろう?」と、自分への違和感を覚えるようになっていきました。(※後にその理由がわかります。)
そして、先ほど家のオーナーは一目見ただけで変だとわかるとボヤきましたが、最終的にそのオーナーとも大きなトラブルになってしまうのです。
そのオーナーは50代後半のおじさんで、オーナーが所有するマンションの一室には、3部屋用意されており、私の他にも1組のカップルが住んでいました。
まだ、そのカップルが一緒に住んでいたときは、それほど大きな影響はなかったのですが…
それでも、おかしな行動は度々取られていたのを思い出します。(体を触られたり、セクハラまがいのことをされたり。)
そして、私がその家に住み始めてしばらくすると、なんとカップルの方が先に家のオーナーと揉めて出て行ってしまったのです。
もう彼らが出ていった頃には、最初は気づけなかったオーナーの異変にも勘づいていたので、きっと何かやられたのだろうとすぐに察しはついていました。
できれば、私も出ていきたいところでしたが、なかなか今後の予定も定まらず、別の都市に移動する可能性もあったので、しばらくは様子を見ることに。
こうして、結局新たな同居人はなかなか決まらず、変なオーナーと二人きりで過ごすことになってしまったのです。
そんな不安定な日々を続けていたある日。
買い出しに出かけようとマンションのエントランスを出たところで、うっかり部屋の鍵を忘れてしまったことに気がつきました。
マンションの鍵は、エントランスの入り口でタッチする形式のものだったので、同じ鍵を持っている人に頼まない限り、中に入ることは不可能だったのです。
すぐにオーナーに電話をしてみたのですが、出なかったので仕方なくエントランスの人になんとか連絡を取って中には入れたものの、なんとここで3万円近くのお金を請求されてしまったのです…。
理由はもうあまり覚えていませんが、おそらく鍵なしでエントランスを開けさせたとかそんな類の理由だったのでしょう。
ただでさえ働いておらず、貯金も底を尽きそうな状態だったので、あまりのショックでその場に倒れ込んでしまいました…。
悲劇はこれだけでは終わりません。
このことで酷く落ち込んだ私は、その後帰宅したオーナーと上手く会話もできず、瀕死の状態で部屋に閉じこもっていたのですが、ロクな反応もでき無くなった私に腹が立ったのか、突然オーナーが部屋のドアをぶち破るような勢いで怒鳴り込んできたのです。
もう、あの怒鳴り方は、この世のものとは思えないほどの形相で、本当に恐ろしいものでした…。
ドアを一瞬でぶち破るような激しいノック、そしてドアを開けられた瞬間に鼓膜がはち切れそうになるほどの凄まじい大声を上げられてしまい、その激しいショックから全身が痙攣し、脳もやられて意識が飛びかけてしまい…
しばらくの間、あまりにも激しい脳の一時的なショックからか、全身の震えが全く止まらないなどの症状に苛まれたのですが、なんとか体調を回復させて、家を飛び出しました。
この決定的な出来事をキッカケに、私はすぐに別の都市に移動することを決意。
こうして、変なオーナーの元からはすぐに離れ、新たな場所で生活することになったのです。
2014〜2015年 報われない努力、結ばれない不思議(海外留学)
例のオーナーの家を離れた後は、飛行機で2時間ほどの距離に位置する観光地に移動しました。
もう、これだけのトラブル続きを経験してしまえば、普通の人なら現地での生活も諦めたのかもしれませんが、何年も続く不幸続きで耐性がついてしまっていたのか、感覚が麻痺していたのか…
このときには貯金も底を尽きそうな状態でしたが、せっかく一時帰国から戻ってきたのだから、もう少し頑張ってみようということで、別の都市で自分なりの再出発をすると決めたのです。
もちろん、新たな都市で生活をするにも新しいシェアハウスを決めなければいけないので、事前に家は決めていました。
しかし、またそこでも今度は別の問題でシェアハウスのオーナーから猛烈に嫌われてしまい、トラブルになってしまうのです…。
入居した当初は、そこまで嫌な態度は取られていませんでしたが、なぜか住み始めて1、2ヶ月ぐらい経つ頃には、どういうわけか会うたびに凄まじい暴言を吐かれるようになっていったのです。
こっちは、何も嫌味や悪口など一言も言ってもいないのに、オーナーは鬼のような形相で二度と立ち直れなくなるほどの行き過ぎた暴言を吐くようになりました。
あまりにも人権侵害な発言を日常的に繰り返されたため、本当にサツ意さえ覚えたほどです。
毎日続く中傷、私を蔑む態度に堪忍袋の尾が切れてしまい、結局、バイト先の暴力でブチ切れたときと同じように、自分の中に溜め込んで今まで我慢していた最大級の怒りを、オーナーにぶちまけました。
もちろん手は出していませんが、相手が一瞬で泣くほどの怒鳴り声を上げてねじ伏せてやったんです。
正直、私も不幸になる前までは、活発ではありましたがこんなキレやすい性格ではなかったんです。(そもそも人とトラブルがないからキレる機会がない。)
でも、長年続く不幸続きのせいで、あの頃とは別人のように人格も変わってしまいパーソナリティー障害のような状態になっていたのです。
こうして、結局新たなシェアハウスでも、不可解なトラブルが発生してしまったため、早々に別の家へ引っ越すことに…。(一番最後に住んだ家では、トラブルは起こりませんでした。)
トラブルや不可解な問題は、家だけにとどまりません。
相変わらず、私は異性との出会いも求めていたので、お恥ずかしながら場所が悪いと思われてしまうかもしれませんが、週末にはナイトクラブにもよく繰り出していました。
クラブやバーに行くと、現地の人と知り合いになりやすいので、結構な頻度で行っていたのですが…
そんなある週末の夜に、久々に好みの男性と出会ったのです。その人は、物凄い好みのタイプだったので、勇気を出して話しかけてみたら意外にもフレンドリーに応じてくれました。
その後も、お酒を奢ってくれたり好意的な態度を取ってくれたので、一緒に踊ったりイチャイチャしてくれました。
ですが、普段なら絶対にこんな状況になることはないのに、なぜかこの日に限っては、せっかく一緒にいたフロアに人がどんどん溢れてきて、最終的に群衆雪崩を起こしそうなほどの状態になってしまったので、彼と離れてしまったのです。
結局、その人とは一瞬で離れてしまったので、せっかく仲良くなるチャンスも逃してしまいました…。
そして実は、その後同じクラブでその人と一度だけ再会したのですが、その時にはもう最初に会ったときのような好意的な態度は取ってくれず、「ごめん、俺彼女いるんだ〜。あ、コイツ(彼の友人)なら彼女いないよっっw」とバカにしたように言われてしまい、本当にショックでした…。
ただ単に、私が相手にされていなかっただけだとも思うのですが、なんだか留学先で出会った彼のときと、同じような”何か”を感じてしまったんです。
彼と出会ったときも、お互いが好きだということが分かり、これから仲良くなるだろうという、まさに絶妙なタイミングで終わってしまい、もう少し長い期間一緒にいることができたら、あのまま付き合えたかもしれない。
そして、今回クラブで知り合った人も、最初に会ったときは快くお酒を奢ってくれたり、一緒にいてくれたり、期待させられるような態度も取られていたのに、なぜ二度目に会ったときはあんなにも別人のような態度に変わってしまったんだろう?と。
特にクラブでの出会いは、薄っぺらいものだと言われてしまえばそこまでですが、それにしてもあまりにも良いタイミングで邪魔が入りすぎていないか…?と、私は”何か”を感じずにはいられなくなったんです。
それに、2003年までは誰ともトラブルもなく、常に身の回りに人が集まっているぐらいだったのに、なんでこんなに何もしていないのに、色々な人から嫌われるようになってしまったんだろう…?と。
その後の生活でも、”良いな”と思えるような異性と出会っても、そういう相手に限ってあからさまに嫌な態度を取られてしまったり、その逆で好きになれないような相手にはしつこく付きまとわれたり…
オーストラリア生活の最後に経験したアルバイト先でも、一生懸命自分なりに売り上げを出したり、真面目に働いていたのですが、店長や立場が上のスタッフから同僚もビックリするようなひどい八つ当たりもされるようになってしまい…
結局、何をやっても何を努力しても、悪い方へ悪い方へ転がり落ちてしまうため、残ったビザの期限など無視して、オーストラリアから帰国することを決意しました。
思い返せば、二度目にオーストラリアに戻ってきてからは、学校でも誰からも好かれない上、存在も無視されたり…
出会いの場に行っても、自分が好きになれないような人にばかり追いかけ回されたり、最悪の場合は襲われかけたり、ヤケクソになって好きでもない相手とばかり関係を持ってしまったり…
シェアハウスに移るたび移るたび、オーナーに嫌味を言われたりバカにした態度を取られたり、バイトでは一生懸命働いていても、目の敵にされ八つ当たりの吐け口にされ…
約1年間、どこへ行っても八つ当たりをされ、バカにされ、毎日のように嫌味や嫌がらせをされ、恋愛も幸せを掴みかけた瞬間にチャンスがすぐに消えてしまったり、本当に最悪なことしかなくて、よく生きてたなとさえ思ったほどです。
何よりも一番不可解に感じたのは、良い出会いや仲間に恵まれた留学生活は長続きせず、恵まれない環境の留学生活に限って長期間続いてしまったことでした。
そんなモヤモヤとした感覚に長いこと苦しめられることになるのですが、この”違和感”の正体が、最後の最後で発覚するのです。
これだけネガティブなことを書いてしまうと、ただ不幸な出来事をひたすらあげつらねて、悲劇のヒロインぶっているようにしか見えなくなっているかもしれませんが、決してただの不幸自慢をするためにこれらの出来事を書いているわけではありません。
私がこうして、事細かに自分の身に起きた出来事をご紹介しているのは、今後発信していく人生の疑問にお答えする記事のベースを知っていただくためにご紹介しています。
人生の疑問を解決できる知恵を手にした人間の人生には、一体何が起きていたのか、なぜそこまでの知恵に辿り着いたのか、その理由を深く知ってもらうためにお伝えしています。
なので、どうかただの不幸自慢ととらえず、これも人生の仕組みを理解するための知恵の一つだと思っていただけると嬉しいです。
まとめ
今回は、謎の不幸続きが始まった後の、高校・専門学校時代のストーリーから、海外に留学をしていた頃のお話をご紹介させていただきました!
おそらく、前回の記事(第一章)よりも悲惨な出来事が増えているので、驚いてしまった方も多いのではないでしょうか。
2004年以降の転落ぶりも凄かったですが、海外留学をしていた21〜22歳の頃は、特に恋愛面で苦労することが多かったように思います。
同時に、”何もしなくても嫌われる現象”も、中学の時よりも悪化していました。
もうこれだけでお腹いっぱいと思うかもしれませんが、今回ご紹介したお話は、まだ19年続いた不幸続きの内の半分程度なので、本番はこれからです!
次の記事では、帰国後に働いた職場での出来事、気づかないうちに起きていた体の異変、そして不可解な住居トラブル、救世主との出会いをご紹介します。
ようやく、この異常な人生の紐解きが少しずつ始まっていくような流れとなってくるので、ぜひ次の記事も最後まで読んでいただけると嬉しいです!
今回の記事もお読みいただきありがとうございました(^^)